讃良郡絵物語
白鳳〜奈良時代、平安時代、鎌倉時代、安土桃山時代
それぞれの寸法 60×150a(全6b )和紙 顔彩

平安時代 

壇ノ浦の戦いの頃の四條畷  後鳥羽天皇に仕えた讃良の武士

   
平安時代部分
上清滝遺跡 塔の坊
 平安時代
題箋軸に寿永三年(1184)の墨書 (展示中)
次の年、第81代安徳天皇が壇ノ浦で水没

次代天皇となったのは安徳天皇の異母弟後鳥羽天皇
源頼朝が鎌倉幕府を開き、武士による政権となる
後鳥羽上皇は朝廷の権威を取り戻そうと
幕府に向けて討幕の兵をあげる
承久の乱(1221)をおこす
しかし、たったの一カ月で敗北
上皇は隠岐に流罪
 
鎌倉時代部分
上清滝遺跡 塔の坊が繁栄期 
鎌倉時代〜安土桃山時代
 
大阪と奈良を結ぶ重要な清滝街道沿いに所在

この頃、塔の坊周辺の開発が進む
籠池(ため池) 東西30メートル・南北2メートル
瓦器碗焼成窯(当館敷地に移築)



   
鎌倉時代部分
わが讃良の武士の残念な結末

後鳥羽上皇の中核武士藤原秀康と弟秀澄
親の代から讃良をおさめた有力武士

残念なことに、乱に敗れ幕府から訴追され奈良に敗走
兄弟の本拠地である讃良に潜んでいるところを
幕府軍に捕えられ京で斬首

 
4、鎌倉時代部分
藤原兄弟を追う幕府軍
鎌倉幕府は圧倒的な武力で官軍に勝利

乱の結果
主に東国を基盤としていたものが、この乱で西国の領地を獲得
讃良は乱に功績のあった武士が地頭職につく
北条氏が決定的な力をもち、警察機能を持ち天皇即位にも
関与、これより武士の世は明治維新までつづく

 

北条政子の演説
討つのは上皇ではありません
討つべきは上皇の悪臣
藤原秀康です
官軍を迎え討つのではなく打って出ましょう」

政子のいう悪臣こそ親の代から讃良を治めた藤原秀康です
讃良で歴史上最も有力かつ有名な武士です

     
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