鎌田遺跡ー1

かま   だ   い   せき
鎌 田 遺 跡

鎌田遺跡
遺跡の景観 四條畷のシンボル飯盛山がみえます
 今回の調査(平成12年9月〜11月)で初めて発見された「祭祀具を飾る台」は古墳時代中期のもので、木製で台形の台座に柱部を装着したままの状況で見つかりました。そのすぐ近くからは、長方形で上部にくり込みのある板に、はめ込み式の添え木が装着したまま発見されました。この4個の部材を組み合わせてみた結果、高さ70センチの台に復元されました。

 この「祭祀具を飾る台」が見つかったのは、方形の祭祀場を取り囲む溝内からです。この状況から祭祀の様子を推察してみると飾り台は馬にかかわる祭祀に使用され、祭祀具の木鏃や木刀などを置いたと考えられます。

木鏃 木鏃
飾り台を組み立てる
組み立て
想定図
飾り台の部品1・2
飾り台の部品
 1.2は装着したまま発見されました。方形の板と装着用の添え木です。3は台と柱部が装着したまま発見されました。柱部は中太(エンタシス)になっていて珍しい様式となっています。
 これら1・2・3を組み合わせると上の左の写真のように復元することができました。
 樹種は2の添え木と3の台部がコウヤマキで、方形の板と柱部がヒノキです(樹種鑑定は奈良国立文化財研究所の年輪年代法の 光谷拓実氏によるものです)
楽器のスリザサラ
スリザサラ(楽器)
 また、同じ場所から見つかったスリザサラは、長さ28センチの板に両方に刻み目を入れており、その部分を茶せん状の竹ですり合わせて音を出す楽器として使われました。
 今回の鎌田遺跡の調査で、祭祀場の溝から祭具がまとまって出土し、祭祀の形態が推察できた重要な遺跡となりました。
初めて見つかった祭祀の道具(遺跡の平面図を見る)

溝は、幅が約4メートル・深さが1メートルです。長さは15.7メートルまで確認しました。この溝は、一辺が14メートルの四角いマウンドをめぐるものと推定されました。
 溝は、古墳時代の中頃に掘られ、祭祀場(まつりなどの儀式をする場所)と日常の生活場所とを区切るものです。この溝から見つかった馬骨・製塩土器・初期須恵器などから馬が最初に来た頃の祭祀の様子が明らかになりました。

溝からの祭祀具一括資料として楽器のスリザサラや武具を模した木鏃など数多く出土していますが、これらの祭祀具を飾る台はとても機能的に作られています。すべての部材は組み立て式になっていて、柱部は中太で今までの木製品には見られない要素が取り入れられています。このような組み立て式の台は今まで発見例がなく、初めての出土です。

儀礼ではこんなことをしました(イラストを見る)

祭祀場での儀礼では神さまを呼び、その声を聞き、エネルギーをもらうことが一番の目的です。神さまを呼ぶには音を鳴らすなどして場所を示さないといけません。楽器のスリザサラで神さまを呼び、台にのせた祭具の木鏃や木刀を供えました。そして人や馬の健康を祈り、作物の豊穣を祈りました。この溝の発見によって、朝鮮半島から新しい文化がもたらされた頃の祭祀の姿が明らかとなりました。

おもしろい時代の過渡期

古墳時代の中頃に朝鮮半島から進んだ新しい文化がもたらされ、一大変革がおきました。それは、須恵器という水のもらない硬く焼きしまった土器を焼く技術・織物・鍍金などの金属工芸品・馬の飼育や繁殖などの技術でした。

朝鮮半島から準構造船に乗せられて来た最初の馬は、馬飼いとともに四條畷の鎌田遺跡におろされました。河内には原初的な国のまとまりがあり、その玄関口は難波津でした。難波津から河内湖へゆっくりと船を進めると生駒山系が姿をみせ、飯盛山のふもとにたどりつきます。ちょうど学研都市線の電車が四條畷へ向かって走るときに見える風景が当時をしのばせてくれます(ただし電車は湖の中を走っているのですが)。

馬の輸送は、物を運ぶのとは違い、命にかかわる危険な仕事でした。馬は一隻に1〜2頭しか乗せることができません。馬の食事や休息は人以上に気を使います。馬が病気にかかったり、死んだりしたら、航海の苦労も水の泡です。海辺の津(港)に寄りながら日数をかけて、神さまに祈ったり、占いをしたりして、少しずつ船を進めました。
 当時の馬は蒙古系の小さな馬で、毛足が長く、体高が120cmほどでした。鎌田ムラについた馬は大切に育てられました。馬の導入には中央政権の要請があったことも推測できます。渡来人が前もって周辺の村との交流を深め、受け入れ態勢を整え慎重な下準備があったことでしょう。

朝鮮半島から新しい文化が導入され、時代が大きく変わっていく過渡期の遺跡の発見はとても貴重です。鎌田ムラでの馬の飼育は初期的なもので、馬を飼育しながらムラの南側方向、現在の市民総合体育館あたり(この場所も鎌田遺跡)で米をつくっていました。

鎌田ムラの未来 馬の飼育の発展

 このムラでの牧の運営は30年以上続きました。その後、ムラは市役所や市民総合センターのあたりに移りました。市民総合センター(奈良井遺跡)では本格的な馬の飼育が始まり最盛期を迎えました。専用の馬の祭祀場もできました。儀礼に欠かせない聖水を汲む井戸も備わりました。そのまわりは梅や桜やスモモが次々と咲き乱れ、飯盛山に映えて美しい風景でした。しかし、祭祀場では馬の頭を神様に捧げるという過激な儀式も繰り返しおこなわれ、馬飼いの情熱をうかがい知ることができます。昭和54年の市民総合センター(奈良井遺跡)の発掘調査でこのようなことがわかりました。この遺跡の調査と今までの調査結果で、先進文化の一つだった馬の飼育がどのようにして発展したのかが解明できたといえます。

現在も注目の情報通信

馬は計り知れないほどの大きな役割を果たしました。古墳時代に朝鮮半島から馬がやってくるまでは日本には在来の馬がいませんでした。
 馬は情報・通信・運輸で抜群の能力を発揮します。馬飼いの長だった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)は渡来系集団の結束と情報能力にすぐれ、継体天皇と密接な関係を築きあげました。
 継体天皇は荒籠の導きによって枚方市の楠葉で天皇に即位したことはよく知られています。

継体天皇は福井の出身です。淀川周辺に宮を次々と移して淀川の水運を掌握しました。淀川琵琶湖の水運によって北陸地方、瀬戸内地方、東国へと勢力をのばしました。
 継体天皇は馬による情報と水運によって軍事力をつけたといえます。

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